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文科系アウトドア派のんびり遊楽人

司馬魚太郎シリーズ「蘇る筋痛」

プロローグ

 大学時代におれはFishing愛好会に所属し、ルアー、フライ、海釣りと釣三昧の学生生活をエンジョイしていた。
 クラブのホームグランドは大学から近い豊川水系だったが、岐阜県、長野県、福井県まで遠征していた。
 この体験記は福井県九頭竜川支流雲川水系での、先輩U氏との釣行がモチーフになっている。
 体験したことは事実だが、ストーリーの展開はフィクションである。

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 その時おれは川面の朝日を浴びて、ただひとりフライロッドを振っていた。
 おれの膝までしか水がない浅瀬にホワイトウルフをプレゼントすると、可愛いアマゴが次々とライズする。おれはフックにアマゴを掛けることだけに熱中し、1尾、また1尾と釣りながら上流に向かっている。
 バシャッ。
 すかさず合わせたが空振りにおわり、おれはフライを確認しながら、ふと頭を上げて前方を眺めた。おれの偏光具グラスの視界の隅に何者かがいるようだ。
「うん。何だろうな」
 おれはフライロッドを握ったまましばらくそれを見ていた。それが何かはすぐには分からなかった。モゾモゾして色が黒くて毛が生えた大きなもの・・・。
「ハッ、熊だ。ヒエー」
 まさか、こんな場所で熊と遭遇するとは思いもよらず、おれの心臓はばくばくと高鳴った。

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 おれの脳天にまず浮かんだことは「逃げる」ということだ。死んだマネをするなんて全く考えなかった。熊との距離は50メートルもない。いや30メートルだったかしれない。いや20メートルかも。
 幸い熊はおれには気づいていない様子で岸辺の木立から現れたまま川の水を飲んでいるようだ。
 おれは自分の全身に「せいのっ」と大号令を発し、熊を背にして逃げることにした。ジャバジャバと滑る川底を音を立てて走り始めたとき、ビビビのビと背中に鋭い視線を感じた。おそるおそる振り返ったときに、運悪く熊と目が合ってしまった。
 あー、もうだめだ。今これ以上逃げたら熊はおれを襲ってくるだろう。おれは初めて恐怖を感じた。
 人が通る道までまだ数分の距離があり、こんな道のない細い支流では助けを呼ぶこともできないのだ。
 おれは度胸を決めて熊と対決することにした。 

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 さてどうしたものであろう、おれは思案を巡らせた。この時も死んだマネは考えなかった。あれはウソだ。生きた熊を目の前にして死んだマネができるわけがない。おれは絶対そんなこと信じないぞ。
 おれの頭の中に以前先輩たちから聞いていた熊対処法が次々と浮かんできた。よし、しめたぞ。
 おれは熊の大きな瞳を見つめながら、ゆっくりとウエーダーを履いた右足を後ろにずらした。そして、次はゆっくりと左足をずらし、右足、左足、右足、左足・・・とゆっくりと熊と反対方向に向かって下げていった。
 先輩の話だと熊は人の真似をするという。だから、人が右足を下げると熊も右足を下げ、左足を下げると熊もまた左足を下げる。そのまま右、左を続ければ熊との距離が遠のき、安心できるところで、熊にアッカンベーをして全速力で逃げ去るというはずだった。
 ところがどうしたわけか、この熊野郎はおれが右足を後ろに下げると左足を前に出し、おれが左足を下げると右足を前に出してきやがった。まるでダンスのパートナーと一緒で少しも距離は変わらない。
 おれはこの方法を教えてくれた先輩U氏を恨んだ。 

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 次に浮かんだ方法は熊とにらみ合いの勝負をすることだ。
 おれは腕を組み目をトロンとさせて、熊に対してこちらは何もしないぞと態度で知らせ、熊が諦めるまで何分間でもそのままの状態でいる方法だ。
 時間が10分、30分たち、やがて1時間が経過した。熊の野郎は憎憎しいことに肘を突いて寝そべりながらこちらを見てやがる。鼻歌の「森のくまさん」が気のせいか聞こえるようだ。
 先輩の話によると30分も我慢すれば熊が諦めて帰るはずだったのに。
 おれはこの方法を教えてくれた先輩K氏を恨んだ。

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 やがて1時間30分が経過し、おれは汗だくになっていた。顔中から噴出した汗を拭くため、フライベストのポケットからティッシュを取り出した。その時、おれはまたもU先輩から聞いた話を思い出した。実はU先輩はもと山男であり、山の知識が豊富なのだ。それはこんな話だった。
 山で熊にあったときに紙を細かくちぎって熊に向かって大きく投げて宙に舞わせると、熊は雪が降ってきたと勘違いし、冬眠のために自分の巣に戻るという、考えてみれば都合のいい話だ。
 おれはさっそくありったけのティッシュを宙に向かって投げた。
 それを見ていた熊さんは大きな体を起こし、本当に雪が降ってきたと思ったのか体をぶるぶる震わせている。
 ああ、先輩の話は本当だったのだと感謝したのもつかの間重大なことに気がついた。
 熊は冬眠する前には腹ごしらえのために荒食いして満腹の状態にしなければならないはずだ。そして絶好の食い物が目の前にいるのだ。あ、あー、あー。案の定、熊の野郎はおれに向かって歩き始めた。大きく開いた口からよだれをだらだら垂らしながら。

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 ヒエーッ。おれはまたも先輩を恨みながら一目散に逃げ出した。先ほど釣った30センチのアマゴ数匹も投げ出した。後ろを振り返ると、熊さんは美味しい魚には目もくれず、おれを追ってくるではないか。 

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 おれはもう駄目だと思って、大事な竿を熊に向かって投げつけようと、ロッドを振り上げたときに名案が浮かんだ。
 おれの持っている竿はフライロッドなのだ。その先には当然フライラインが結ばれている。鞭のように投げることのできるフライラインが。
 おれはすぐに熊の野郎に向かってキャスティングを繰り返した。
 すると熊の野郎はおれを追うのをやめて、巨体を震わせながら縮めているではないか。おれは休まず熊野郎に向かってキャストを繰り返した。相手がびくびくしているのが面白くなり、おれは、フライラインを鞭の代わりにして熊を曲芸のように踊らせた。ピシッ、ピシッ、ピシッ。
「ソ、ソラ、ソラソラ、クマ公のダンス・・・」
 おれはこのとき調子に乗っていて、バックキャストが水面に接近していることに気がついていなかった。しかもフライラインの先には当然のことながらドライフライが結ばれたままなのだ。フライラインの先のフライは熊とおれの後方の水面を往復している状態だった。
 ダンスを踊っていた熊野郎が大きなジャンプをしたとき、キャストが乱れて、バックキャストが水面スレスレに飛んでいった。
 バシャッ。水面上のドライフライに30センチのアマゴがライズした。
 さあ大変。フックにアマゴが掛かってしまって、前にいるダンスを踊っている熊さんにフライラインの鞭を浴びせることができなくなってしまったのだ。


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 ガオーッ。自由になった熊はおれに襲い掛かった。反射的に熊の鋭い大きな右手を避けたが、爪がおれの尻に少し触れた。
 おれはすぐに立ち上がり、夢中で熊のお腹に抱きついた。すると熊は腕を斜めにしか振り回せずにお腹にいるおれは捕まえられないようなのだ。しかし、このままではいつまでたっても逃げられない。抱きついたままダンスをしているわけにはいかないのだ。おれは最後の決戦に出た。

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 おれは空気を腹いっぱいに吸い込み、それを腸の中でよくこね回し、肛門付近に集中させて、えいっと力を入れて強烈なガスを押し出した。
 ブリブリブリ。水面が波立ち、激臭が漂った。その匂いをまともに大きな鼻に向かって「にぎりっぺ」された熊は一瞬膝をくずしてたじろいだ。
「それ、今がチャンスだ」
 おれは熊のみぞおちに頭突きを食らわせ、両手で毛むくじゃらな睾丸をおもっきり握り締めた。
「ギャオーオオオオオオーン」
 熊は悲鳴をあげ前を押さえてひっくり返った。熊野郎はオスだった。
 おれは大事なフライロッドを握り締めひたすら逃げた。まるで水面を滑るように走り去った。

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「恐かった。本当に生きて戻れることができてよかった」
 おれはしみじみ思い、川を後にした。
 帰り際に熊に出会った雲川の支流の名前が看板に出ていた。
 「熊河川」
 出来すぎた話のようだが、国土地理院の地図を見てみろ。これは本当である。

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 熊に出会って数日後、クラブの部室でT氏に「カメさん。熊に会って腰を抜かしたんだって」と言われた。
「それはU先輩のでたらめだ。おれはすぐに逃げ出しただけだ」
 どこで変な噂になってしまったのだろう。本当はあんなに勇敢に戦ったのに。おれは殴ってやりたくなった。
 実は、一緒に釣りに行っていたU先輩には、熊と格闘したことは言わずに、ただ恐くて逃げたことだけしか告げてないのです。
 なぜかと言うと、あのとき受けた傷が恥ずかしかったのです。このことは永久に秘密にしておくつもりです。どんなにみんなに臆病者と言われようと。
 自宅に戻り、あの格闘のときに思いっきり引き抜いてやった熊野郎の真っ黒な「ちん毛」をマテリアルにしてドライフライをタイイングしていると、あの時受けた傷が痛み出してくる。
 あのときの痛みが蘇ってくる。
 あのとき、熊の右手の爪に引き裂かれた肛門の大きな傷が。

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エピローグ

 熊河川と呼ばれる川でフライフィッシングの最中に熊に出会ったことは事実である。
 小さな支流であったため、先輩と別れてひとりで道から離れた細い川で突然出会ったのだ。
 出会ったときよりも、道まで帰る間が恐かった。ほかの熊と帰り道で出会うと逃げ道がなくなるからだ。
 おれはそれ以降、渓流釣り、特に福井県内での釣りに臆病になり、常に笛を携帯し、川に入る前には笛を吹いてから釣りを始める習慣になった。そのお蔭かどうか、先ほど熊に会ったという釣り人には出会ったが、おれ自身は一度も本物の熊には出会っていない。
 また、本州の熊は「月の輪熊」のため、人間を食べることはない。よく新聞に載るのは、いきなり鉢合わせて驚いた熊に襲われるためである。本来、人間がいることがわかれば熊の方から避けてくれるらしい。そのための笛であり、鈴なのだ。ただし北海道のヒグマはこのことはまったく通じないのでご注意を。 

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 最後になるが、このとき釣行を共にしたU先輩は今はいない。先輩とは馬鹿な話をして、釣場ではあほらしいライバル意識を持っていてよく先陣争いをした。
 楽しかった先輩は30代前半で病気のため亡くなった。
 今日、大掃除をしている最中に懐かしいクラブ日誌を見つけ、今、ここにホームページとして公開しようといているのは、先輩の思し召しかもしれない。先輩、忘れてないですよ。
 
 この体験記をキャンディーズが好きだったU先輩に捧ぐ。


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